法話会
4月 ウェリナ 法話会

「南無阿弥陀仏」
気がつけば 世の中全てが南無阿弥陀仏
高科 修 師
YouTube視聴の振り返り
日野介護士が内容を深めていきます。

後輩のお坊さんが月参りに行っているお宅で、ご主人から「いつも天気の話や世間話ばっかりして帰らんと、どうか今日は法話をして帰ってくれ」と言われたそうです。
後輩のお坊さんはこう答えました。「いつも仏法の話、法話はしていますよ。」
そうすると、ご主人はカンカンになって「仏法の話はひとつも聞いていない!いつも天気と世間話や!」と。
後輩のお坊さんの答えは「天気の話はいけませんか、世間話はだめですか…。」
噛み合わない不思議な話です。

仏法、法話を聞くとは、どういうことなのか、南無阿弥陀仏の6文字はどういう意味なのかを語ります。
今、まさに井戸に落ちようとしている幼い子供がいます。
あぁ、危ない!落ちたら死んでしまうかもしれない。側にいる人が手を差しのべに駆け寄ります。
危ない死んでしまうかもしれないという心を「かわいそう」という言葉を使います。
かわいそうという言葉は人の痛みがわかる心という意味で使います。一般的な憐れみの意味ではありません。
中国戦国時代の儒学者、孟子は惻隠(そくいん)の心=人の痛みがわかる心は、もともと人間に備わっている心とときます。
けれども浄土真宗は違います。かわいそうという心が始めからあるとか、ないとかではありません。
井戸に落ちそうな子供が、私にかわいそうという心を気づかせてくれた、与えたんだととっていきます。

過去の関係の中から気づきを与えてくれる、南無阿弥陀仏の南無を表しています。
南無→頭が下がる、気づかされること。帰命と訳されます。帰命→光とも訳されます。光→気づきを与えてくれること。先ほどの井戸に落ちそうな子供が光にあたります。
阿弥陀仏→無量寿という意味。無→量れない。量→重さ長さも量れない、手で持って量れない。寿→命。
過去から現在未来へと続く長い命は生命ということだけではなく、願い、技術、人に対する思いやり、全ての流れを無量寿という言葉で表しています。

南無阿弥陀仏とは、過去から続くたくさんの空間、世の中のつながり、時間、全てのものが南無阿弥陀仏。気づけば全てが南無阿弥陀仏なのです。
周りにあるものすべてが、私が気づくためにそこにあるものということ。
そうなってくると天気の話も世間話もただ単に無駄なものではないということです。
後輩のお坊さんが言った、いつも仏法の話はしていますよ。法話はしていますよということになります。

日々当たり前の生活のように感じますが、色々な人との関わりの中で、いろんな会話をしていろんなことを感じています。
感じている自分に気づいていますか❓
納得できないこともあるし納得できることもある。その連続でいろんな自分に出会っている。いろんな自分が引き出される。
自分の都合に合わなかったら腹が立つことはありませんか❓
瞬間、瞬間、過去になっています。過去のたくさんの出会いにより私たちは、いろんな自分が出てきています。
ただ…それに気づいていますか❓
気づく眼を持たないと気づかないまま過ごしてしまいますよ。

何気ない会話、言葉を考えてみれば自分の姿を気づかさせてくれるようなことばかりなんですよと
高科先生は教えてくださいました。





日野介護士、本日の法話会ありがとうございました。また新しい試みとしまして、毎日2階フロアでは、お勤めをしてから夕食をいただいています。

毎日のお勤めで気持ちの安らぎが続きますように…。

中田