法話会
今月も法話会が行われました🍀
「人間の思いやはからいを越えた阿弥陀如来の誓願のはたらきにたすけられて、ほかならぬこのわたくしが、間違いなく往生を遂げさせていただくのであると信じて、念仏申そうと思い立つこころの起こるとき、同時に、おさめ取って捨てぬという救いにあずからせてくださるのです。」
わかりやすく読むとこのような意味になりますが、もうちょっと具体的に考えてみたいと思います。
「誓願」=「本願」です。私たちの願いと仏様の願いについて考えてみます。私たちが抱く願いにはいろいろありますが、私たちの願いは、一旦その願いが叶うとその願いは終わり、また新しい願いを抱いたりします。その繰り返しが私たちの姿です。
人間の願いには裏側があります。例えば、身内がやってるスポーツで試合があると勝たせてやりたいと願ったり、受験などでは合格してほしいと思います。その願いや思いを時に神様や仏様に祈願したりします。その祈願が温かな励ましとなり、心の支えになることもあります。
しかし、試合に勝つように祈願することは、相手方が負けるように願うことであり、受験も誰もが合格するわけではないので、誰かが落ちることを同時に願っていることになります。
私たちの願いは、時にその裏側に誰かを負かしたり、犠牲にすることを含むことがあります。
ただ気になるのが、自分の願い事に集中するあまり、願いの先に相手や様々な状況があり、それを犠牲にしたり、排除したりすることが、私たちの視野に入らず、関心も及ばないということです。
こうした人間の願いに対して、仏様にも願いがあります。私たちの人間の願いと仏様の願いは同じではありません。私たちが気づかない人間の願いの問題、叶えば色あせる、自己関心に留まり願いの裏側にある状況や背景が見えてないということに気づいて、その問題に目覚め課題を共有していこうということが仏様の願いであり、仏様の真実の願いであります。
真実とは私たちの事実を明らかにするという事であります。
私たちがわかっていることだけでなく、認めなかったり、気が付かなかったりする事実を明らかにする教えが真実です。
私たちが持つ「願い」の問題の事実を明らかにするということであります。
その仏様の真実の願い、「誓願」=「本願」のはたらきにたすけられ、往生ができると信じて念仏を申そうと思ったと同時に仏様に救われている、という事であります。なので、普段お勤めをしている時のお念仏や、お勤め以外でもお念仏を口にしている時があると思うのですが、その時その時に仏様の救いにあずかっているということになると思います。
「弥陀の誓願不思議」、「摂取不捨」などなど、難解な言葉が出てきてわかりづらいかもしれませんが、また皆さんと共にお参りの時間を持ち、真実の言葉を聞法していきたいと思います🤗
来月はおやすみで、次回の開催は8月となります🙇♀️ありがとうございました✨
ウェリナ 日野でした🍀